壁に遺された〈なにもできない父親でした〉
東日本大震災から10年。当時、福島第一原発の事故は地元酪農家たちを直撃。原乳は出荷停止となり、彼らは原乳を搾っては畑が真っ白になるほどに捨て続けた。ある54歳の酪農家は堆肥小屋の壁に遺言を残し、自殺。そのフィリピン人妻に保険金が入ると、彼女のもとにはさまざまな人間が群がっていった。原発事故は彼らの人生をどのように狂わせたのか。ノンフィクションライター・水谷竹秀氏によるルポ。 【写真6枚】壁に残された遺言「原発さえなければ」 (「新潮45」2015年11月号より再録) ***
東日本大震災から3カ月後、酪農家が壁に書き殴った跡は今もそのままだ。 しかし遺産を手にしたフィリピン人の妻は、新たな人間関係に巻き込まれていた。 うだるような暑さが続く2015年7月、私は再びあの現場に向かっていた。 福島駅で借りたレンタカーで山道をひたすら東へ。ハンドルを握る私の心の中は、小波が立つようにざわついていた。思い返せばこの数年、胸に何かが詰まったような違和感を覚えてきた。メディアは沈黙を続け、事件はすでに過去の闇に葬り去られたかのように、時間だけが流れていった。 やっぱり自分で確かめる以外にない。そう決心したものの、車が刻一刻と現場に近づくにつれ、不安は募るばかり。小一時間ほど走ると見慣れた小学校の校庭が目の前に現れた。そこからさらに北へ進むと、酪農家の菅野重清さん=当時、54歳=が「原発さえなければ」という遺言を残し、首を吊って自殺を図った牧場がある。それは東京電力福島第一原子力発電所の事故から3カ月後の、2011年6月10日のことだった。 菅野牧場の周辺は小高い山々に囲まれ、家々が点在しているような山里だ。ちょうど宮城県との県境でもあり、春、夏は緑一色に染まった田園風景が広がる。現場は牧場の一番奥にある堆肥小屋で、菅野さんの墓参りを済ませた私は、車で牧場の敷地に入った。 堆肥小屋の広さは約6メートル四方。中に入るとやはりとは思ったが、白いチョークの遺言は、そのままになっていた。 〈原発さえなければと思います〉 〈仕事をする気力をなくしました〉 〈なにもできない父親でした〉 日時は2011年6月10日午後1時半。 菅野さんはこの後、首にロープを掛けて自らの命を絶った。
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