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Thursday, September 29, 2022

犬になって見た世界は、なにもかもが大きい。涙なしに読めない、切ない記憶。感涙&どんでん返しミステリー! 近藤史恵『筆のみが知る』特別ためし読み!#3 - カドブン

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近藤史恵『幽霊絵師火狂 筆のみが知る』試し読み

「怪と幽」で人気を博した、近藤史恵さんの切なくて愛おしい絵画ミステリ『幽霊絵師火狂 筆のみが知る』。
そのなかでも読者の反響が大きかった「犬の絵」を配信いたします!

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(応募要項は記事末尾をご覧ください)



「犬の絵」#3

 お関は頼りにならないので、仲居の秋に聞いてみることにした。
 秋は、しの田にきて、まだ四年だから、昔のことは知らないだろうが、猫にこっそり残り物をやっているくらいだから、生き物は好きなはずだ。
 夜遅く、仕事を終えた仲居たちが渡り廊下を通って、自分たちの寝間に帰るところを階段の陰で待ち伏せた。
 秋は幸い、ひとりでやってきた。真阿は小さな声で呼び止めた。まだ寝ていないことが希与やお関に知られたら、怒られる。
「まあ、お嬢様、こんな時間にどうしはったんですか?」
「眠れなくて」
 噓をついた。本当はまぶたが閉じてしまいそうなのに、我慢して起きていたのだ。最近の真阿は噓をつくことが上手くなった。きっと地獄に行くことになるだろう。
「秋は犬が好き?」
「好きですよ。猫の方が好きですけど、子どもの頃はよく近所の犬と遊びました」
「じゃあ、しの田の近くに、黒い犬が住んでいたことがあったかわかる?」
「黒い犬……ですか?」
 秋は大げさに首を傾げた。
「近所のムクとブチなら、知ってますけどねえ。どちらも黒くはないし……」
 たぶん、真阿も見かける白い犬と、白と茶の斑の犬だ。だが、その子たちと、夢に出てくる黒い犬は違う。
「黒い犬がどうかしたんですか?」
「このあたりにいて、見かけた人がいるっていうから」
 夢に出てくると言えば、笑われてしまいそうだから、真阿はまた噓をつく。
「だとすれば、あたしがくる前じゃないですかねえ……」
 やはり、真阿の夢に出てくるのは、しの田の近くにいた犬ではないようだ。夢の中にだけ生きている犬なのだろうか。
「そういえば、関係ないかもしれませんけど」
 秋がなにかを思い出したような顔をした。
あわまちによく、仕出しを注文してくれるねえさんがいましてね。黒い野良犬をとても可愛がってましたよ。くろ、くろって、呼んで。くろもいつも、姐さんの家の玄関口で丸くなっていました」
 背筋がすうっと冷えた。
さきさんって方でしたけどね。なんでも、お世話をしてくれる方が早く亡くなって、充分に生活できるだけのものを残してもらったとかで、毎日、野良犬をかまったり、しんないの稽古をしたり、好きに暮らしてはりました。うちの仕出しもよく取ってくれて、お届けに行くたびに、うらやましいような気分になりましたよ」
「今、その人は?」
 秋は、まゆを寄せて少し考え込んだ。
「そういえば、ここしばらくは仕出しのご注文はありませんねえ。まあ、充分なものを残してもらったからといって、いつまでもぜいたくできるとはかぎりませんし、もしかしたら、新しいだんさんでも見つけはったかも……」
「くろは、どんな子だったか覚えてる?」
 黒い犬は他の犬よりも、目立った特徴を探しにくい。無理な質問とわかりつつ、聞かずにはいられなかった。
 秋は、両手を広げた。
「このくらいの大きさで……そうそう、足先が白かったです」
 その手の幅は、夢で会う黒い犬と同じくらいの大きさだった。

 また夢で黒い犬と会った。
 黒い犬はこれまでより、近くにいた。その前足の先が白いことに気づいて、真阿は息をんだ。
 この子がくろなのだろうか。どうして、真阿の夢に出てくるのだろうか。
 真阿は、縁側から下りて、くろのそばにしゃがんだ。くろはそっと目をそらした。
「咲弥さんを覚えている?」
 くろが一瞬、こちらを見た。だが、特に名前に反応はしない。
 ぐらりと世界が揺れた。真阿の目に映ったのは、寝間着を着た自分の姿だ。しゃがんで、高いところから手を伸ばしている。
 ああ、と、気づいた。
 真阿がくろになり、くろが真阿になったのだ。下を見ると、足袋たびを履いたような白い前足が目に入る。
 夢だから、こんなこともあるだろう。犬になって見た世界は、なにもかもが大きい。濡れていることはそれほどつらいと感じなかった。毛皮のおかげだろうか。
 ふいに黒い犬の記憶が雪崩なだれ込んでくる。
 凍えそうに寒い、雪の日、「こっちにおいで」と呼びかけてくれた人。
 三十前くらいの、柔らかそうな肉付きをした女の人。
 玄関に入れてもらい、白い飯に汁をかけたものを食べさせてもらったこと。うまくて、腹がふくれ、朝までぐっすり眠れたこと。
 名前など知らない。その人に名前があるなんて考えたこともない。
 なのに、くろの中には、その人のことばかりが詰まっている。
 町をふらついた後、その人のところに行くと、いつも撫でてくれたり、うまいものをくれたりする。雨の日や、雪の日は玄関に入れてくれる。
「くろや、くろ」
 くろというのが、自分の名前かどうかもわからない。別の場所では別の名で呼ばれる。ただ、その人にそう呼ばれると、うれしくて跳ね回りたくなるのだ。
 くろはいつも、その人のことを考えている。町を歩いていると、追い払われたり、水をかけられたり、他の犬にえ立てられたりするが、その人の家まで行くと、優しくしてもらえるのだ。
 その人の顔が見たい。その人の胸に顔をこすりつけて、匂いを嗅ぎたい。
 その人とずっと一緒にいたい。
 目が覚めたとき、真阿はなぜか泣いていた。
 ようやく夢を見る理由がわかった。くろにはどうしても伝えたいことがあるのだ。

 それから五日ほど経った昼過ぎ、真阿は暇をもてあまして、興四郎の部屋を訪ねた。
 興四郎は、どこからか持ってきたきようそくにもたれて、煙管キセルをふかしていた。
 絵を描いていたら、それを見せてもらおうと思ったのに、今はなにも描いていないようだ。
 火狂の絵は人気があると聞く。
 この前見せてもらった蚊帳かやに手を入れる女の絵も、いつの間にか売ってしまったらしい。
 この前、男が持ってきた掛け軸は、床の間にぶら下げられている。裃を着た犬がやけに神妙な顔をしていて、笑ってしまう。
 不思議に思って興四郎に尋ねてみた。
「どうして、裃を着ているの?」
「ああ、それはな……」
 興四郎が話し始めたとき、階段を上ってくる足音がした。乱暴で、怒りさえ感じられるような足音。すぐに気が付いた。この前の男だ、と。
 男は、開いたままの襖からどかどかと入ってきた。真阿のことなど見向きもしなかった。
 前に寺で見た仁王像のように怖い顔をしている。ひどく瘦せているのは、もともとなのか、それともなにかの病気なのか。
 男は床の間の掛け軸を見て、目玉がひっくり返りそうな顔をした。
「なんで、この絵を始末せえへんのや!」
 興四郎があきれたように小指で耳をく。
「おめえが勝手にしろって言ったんじゃねえか」
 男は一瞬、ことばに詰まった。だが、気を取り直したように言う。
「そんな絵、さっさと燃やせ!」
「やなこった。俺の好きにするさ」
 男はごくりとつばを飲み込んだ。おおまたで歩いて、掛け軸に近づく。絵が破かれてしまう。真阿はそう思って、口に手を当てた。
 だが、そうはならなかった。男は絵の前で力なくくずおれた。
「なあ……頼む……助けてくれ……」
 これまでとまったく違う、泣きそうな声で言う。
「助ける? なにからだ」
 興四郎は煙管を煙草盆の灰落としに打ち付けた。その後、ふっと息を吹いて、煙管を通す。
 男は精根尽き果てたような声で言った。
「この犬の夢を見るんや……この絵を手に入れてから毎夜。毎晩、夢の中で俺はこの犬に食われる。指や腕や、足を食いちぎられる……」

(つづく)

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作品紹介



幽霊絵師火狂 筆のみが知る
著者 近藤 史恵
定価: 1,705円(本体1,550円+税)
発売日:2022年06月30日

その男の絵は、怖くて、美しくて、すべてを暴く。
大きな料理屋「しの田」のひとり娘である真阿。十二のときに胸を病んでいると言われ、それからは部屋にこもり、絵草紙や赤本を読む毎日だ。あるとき「しの田」の二階に、有名な絵師の火狂が居候をすることになる。「怖がらせるのが仕事」と言う彼は、怖い絵を描くだけではなく、普通の人には見えないものが見えているようだ。絵の犬に取り憑かれた男、“帰りたい”という女の声に悩む旅人、誰にも言えない本心を絵に込めて死んだ姫君……。幽霊たちとの出会いが、生きる実感のなかった真阿を変えていく。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322104000676/
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