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Saturday, July 23, 2022

【ウェブ限定】一夜で火災地獄、岐阜空襲 鮮明な体験談、50年前の記事からたどる/前編 - 岐阜新聞

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連載「岐阜大空襲」第1回「柳ケ瀬炎上 岐阜市(上)」の記事(1972年7月9日付・岐阜日日新聞)

 今年も太平洋戦争を振り返る季節になった。1945年8月15日の終戦から、今年で77年を迎える。岐阜県内も主要都市が空爆を受け、岐阜市では同年7月9日の空襲でまちが焼け野原になった。大垣市でも、同年7月29日の空襲で国宝大垣城が焼け落ちた。

 当時10歳だった人は、もう87歳。年々あの日を知る人が減り、今となっては〝子どもの頃の体験談〟が主流だ。一人でも多くの体験者の〝記憶〟を記録しようと、新たな証言者を捜すも、その証言者捜しは年々難しくなっている。77年もたつと、体験者自身の記憶も曖昧だ。

 悩んでいると、あることに気づく。新聞は1日たつと「古新聞」と呼ばれるが、歴史上の出来事に関しては、古新聞の方がリアルで正確なのではないか。体験者がまだ多くいて、記憶も鮮明だった頃の新聞記事。そこには生々しい証言が記録されているのではないか―。そんな矛盾に気づいた。

 そこで、50年前の1972年7月の本紙(当時は岐阜日日新聞)を調べると、やはり。戦後27年になるこの年、だんだんと薄れつつある当時の記憶を残そうと、「岐阜大空襲」のタイトルで、岐阜空襲と大垣空襲を振り返る全4回の連載を行っていた。今なら100歳を超える人、大人になってから空襲を体験した人の証言が、そこに記録されていた。

 インターネットもなかった時代だ。おそらく50年前に一度だけ掲載し、そのまま眠っていただろう証言の数々。その生々しい証言を半世紀がたった今、再び注目してみたい。岐阜市の柳ケ瀬や大垣城が空襲によって燃えた夜、当時の大人たちは何を感じたのか―。

 終戦27年を迎える72年の7月9~12日、岐阜日日新聞が連載した「岐阜大空襲」。前半2回は岐阜空襲、後半2回は大垣空襲を扱った。

 冒頭、連載の目的をこう記している。

 「空襲の日の悪夢を知る世代、体験者は、いまとなっては、県民のなかで、だんだん少なくなっていく。〝岐阜大空襲〟―〝なにをいまさら〟の感が、ないでもない。しかし、あの業火に追われた一日の歴史には、あまりにも空白の部分が多いので、〝灰じんの記録は〟いま残さねばならぬ―という機運も高まっている」と。

タイトルは…
・第1回「柳ケ瀬炎上 岐阜市(上)」
・第2回「死者の山 岐阜市(下)」
・第3回「城が燃える 大垣市(上)」
・第4回「ツイてた男 大垣市(下)」

 …の全4回だが、ここでは生々しい証言が記録されている第1回と第3回に注目したい。記事を前編(第1回)と後編(第3回)の2回に分けて再掲する。

 第1回は、明治の頃に柳ケ瀬に住み始めたという小沢銀次郎さん(66)=45年当時39歳、現在では116歳になる計算=の体験談をまとめている。以下は、記事の全文だ。

(※漢数字は洋数字に。一部、平仮名は漢字に。脱字は補いました。数字は掲載当時のまま)


前編「柳ケ瀬炎上 岐阜市(上)」

1972年7月9日付・岐阜日日新聞

 明治の代から柳ケ瀬に住みついてきた小沢銀次郎さん(66)=当時39歳、柳ケ瀬5丁目=は、自宅はもちろん、中心部柳ケ瀬と、それに続く元の大遊郭・金津園が焼け落ちるのを見た。今経営しているうなぎ店の位置で、そのころ〝雑炊屋〟を開いていた。そのあたりは〝金津園〟への門を入った〝大明通り〟と呼ばれていたところ。なまめかしい雰囲気が漂う町だった。

 その遊郭の建物は、50軒ほどあった。みんな軍需工場従業員の宿舎に当てられていた。
雑炊屋は、昼ごろ店を開くと並んでいたお客が一日の割り当て約150杯を、ものの15分ほどで平らげてしまう毎日だった。

 戦況の不利で、岐阜市の空襲も必至と見られていた。今の若宮町通り、神田町通り両側の家並みは、延焼防止のために強制疎開させられ、幅100メートルの道路?になっていた。

 小沢さんは奥さんのかぎさん(当時34歳)と2人の男の子、2人の女の子を奥さんの実家(愛知県江南市)へ疎開させていた。店は店員2人とやっていた。その夜も、寝床へ入るにも〝きゃはん〟を巻きつけていた。

 その日(7月9日)夕方7時ごろ、店の前で町内の人と〝今夜あたり危ないぞ〟と話していた。町内に残っているのは男の働き手ばかりだった。8時ごろ、空襲警報が発令された。避難命令が出た。南の方の空が明るくなった。家の中へ入って米と豆をおひつの中へ入れ、若宮町通りの町内防空壕へ避難するつもりだった。

 続いて、西の方から〝ゴーッ〟という音とともに、焼夷弾のむちゃくちゃ攻撃。自宅前の家が、たちまち炎に包まれた。あとは身の回りの全てが火の海。何年も訓練した火たたきや、バケツリレーなど、まるで役に立たなかった。

 火の回りが早かった。しまった―と思った。手に持っていた米などは捨てた。ともかく、若宮町通りまでたどり着けば、自分は焼死だけは免れると思った。自宅が燃えることなんか、なんとも思わなかった。

 「浅野家」という当時随一の遊郭と、その前の家との間に逃げ道を求めた。じりじりと自分の毛髪が焦げるのがわかった。火の海に走り込んだ。「浅野家」がゴオーッと焼け落ちるのと、自分がそこを走り抜けたのは、ほとんど同時だった。あと1秒も遅かったら、道は閉ざされていた。

 若宮町通りの防空壕には、たくさんの避難者がいた。柳ケ瀬1―4丁目方面を見ると、この世とも思えぬ火災地獄が展開されていた。丸物百貨店の鉄筋の建物だけが黒煙のなかに見え隠れした(丸物は10日明け方になって5階あたりから火が出て焼けた)。不思議と、冷静にそれを見ていられた。いっさいを失ったことが、そうさせたのだろう―という。

 10日午前5時ごろだったろうか? すっかり焼け野原になった岐阜市を見た。自宅跡には、何も残っていなかった。遊郭の建物跡から若者の黒こげ死体2体が出たのを、うつろな目で眺めた。

 やがて、疎開先からかぎさんが次男を背負って焼け跡へたどり着いた。かぎさんは神田町通り近辺で、数えきれぬほど焼死体を見た。主人の姿を見て、かぎさんはペタリと焦土の上へ座り込んでしまった。あたりには、近所の人たちの顔も見られなかった。

 その日、焼けトタンと焼けくぎ、燃え残りの木でバラックを建てた。空襲の翌日から1週間ほどは、毎日雨だった。焼けトタンの屋根から滝のような水が落ちた。

 それでも、わが家の復興は、その日から始まった。

 9日夜、岐阜市はB29、70機の焼夷弾の洗礼を受けた。この後に続く7月12日の空襲とともに、人口20万の市の市街地の85%に当たる5・6平方キロ、全戸数の51・7%に当たる2万427戸が灰と化した。死者863人、負傷者515人を出し、罹災者は全市人口の43・9%の8万6197人に及んだ。(建設省編・戦災復興誌第6巻から)


<後編「城が燃える 大垣市(上)」に続く>

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