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Tuesday, September 27, 2022

雨に濡れた、悲しそうな犬。毎晩、夢に出てくる犬の正体は? 感涙&どんでん返しミステリー! 近藤史恵『筆のみが知る』特別ためし読み!#1 - カドブン

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近藤史恵『幽霊絵師火狂 筆のみが知る』試し読み

「怪と幽」で人気を博した、近藤史恵さんの切なくて愛おしい絵画ミステリ『幽霊絵師火狂 筆のみが知る』。
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「犬の絵」#1

 今日も犬の夢を見た。
 やせっぽちの黒い犬。何度も夢で会った犬だ。雨にれて、少し離れたところから、真阿を見つめている。
 耳が少し下がっていて、悲しそうな顔をしている気がした。
 真阿の家は料理屋だから、犬や猫は飼ってはならないと言われている。だけど、ちゆうぼうに行って、残り物をなにかもらってきたい気持ちに駆られる。夢だから、きっとかまわない。
「おいで、くろ」
 声に出して呼んでみた。名前は知らない。でも、黒い犬なら、そう呼ばれて、近所の人に可愛がられているかもしれない。大人しくて、賢そうな目をしている。
「おいで、なにかあげるよ」
 今、手元になにも持っていないのに、こんなことを言うなんて、噓つきだ。犬は鼻がいいから、真阿の噓なんて見抜いてしまうかもしれない。
 でも、真阿はくろのことを触りたいのだ。
 濡れた毛をさかでして、獣くさい匂いをぎたい。
 そういえば、若い仲居のあき出汁だしを取ったあとのかつおぶしを、猫にやっているのを見たことがある。くろもかつおぶしを食べるだろうか。
 出汁がらのかつおぶしは、甘辛くって、と一緒にふりかけにするけれど、真阿はもうそれを食べ飽きてしまったのだ。
 飼えないけど、雨が上がるまで、軒下にいるといい。なにか食べ物も持ってきてあげる。
 そう思っているのに、黒い犬は遠くから真阿を見ているだけだ。
 ふいに思った。くろが欲しいのは食べ物などではないのかもしれない、と。

 目が覚めて、いつも不思議に思う。
 この近くで黒い犬など見たことはない。白い雌犬や、ぶちの大きな犬が子どもたちと遊んだり、通りすがりの人に食べ物をもらったりしているのは見た。
 夏の初めから、真阿は三味線のけいをはじめて、ときどき出かけるのだが、ついてきてくれるお関は犬が怖いと言って急いで通り過ぎるから、真阿は撫でることもできない。
 三味線のお師匠さんはあさきちという名の、芸者上がりの色っぽい人で、小さなちんを飼っている。
 お稽古の合間に、その子を抱かせてもらうのだけが楽しみだ。
 夢を全部、理屈で説明できるわけがないことは知っている。でも、あの黒い犬はどこからきたのだろう。
 どうしてあんなに雨に濡れていて、あんなに悲しそうなのだろう。
 そして、どうして、何度も真阿の夢に出てくるのだろう。

 夕方、風鈴売りの音が近づいてくるのが聞こえて、真阿は障子を開けて、縁側に出た。
 井戸の近くで、景気のいい水音がした。
 興四郎が行水をしているのだ。
 居候の興四郎はきれい好きだ。朝起きると、真っ先に屋に出かけていくし、夕方は井戸で水を浴びる。
 このあいだは、雨だというのに、頭から井戸水を浴びていて、驚いた。
 行水が終わって、浴衣ゆかた一枚で縁側にいる興四郎に話しかけた。
「雨が降っているのに」
 興四郎は、固く絞った手ぬぐいで顔やら頭やらをきながら、笑った。
「どうせ、行水で濡れるんだから、雨でもかまわないさ」
 そうかもしれない。
 後ろに立って、山のように大きな背中越しに、雨の降る庭を眺めた。
 興四郎のように、人の目を気にせず、井戸端で行水をしたり、夜であろうとひとりでふらふら出かけたりできればどんなにいいだろう。
 真阿にはどちらも死ぬまで許されない楽しみかもしれない。行水なら、お婆さんになった頃には、もしかしたら。
 こんなに大きくて、強そうな身体を持っていれば、きっとどこへだってひとりで行けるのだ。
 水の音が止んで、しばらくしてから、真阿は興四郎がいつもいる階段の下へ向かった。思った通り、興四郎は浴衣でうちわを使いながら、庭を眺めていた。真阿の顔を見て、にっこりと笑う。
 えべっさんの置物が、こんな顔をしていたような気がする。釣り竿ざおたいを抱えて。
 昼間はあんなに暑かったのに、日が落ちる前の空気は、ひんやりとしている。明日の昼前にはまた外に出るのも嫌になるくらい暑くなる。涼しさはどこからやってきて、どこに消えてしまうのだろう。
 真阿は、聞きたかったことを口にした。
「興四郎は、おさんに行ったことがある?」
 真阿は思っていたことを口に出すのに、前置きをするのが苦手だ。お関や母の希与は「まあ、やぶからぼうに」などといって笑うのだが、興四郎はあまり気にしない。すぐに答えてくれる。
「あるけど、たいしたことねえよ。でっかい鳥居とでっかい神社だ。行き帰りのふるいちの方がよっぽど楽しい……おっと、これは内緒だ」
 古市がお伊勢参りの客のための、花街だということは真阿だって知っている。内緒にする必要などない。
「つまらなかった?」
「まあな」
 だが、つまらないと言えるのも、そこを訪れた者だけだ。行けない者は、「たいしたことねえよ」と笑うことすらできないのだ。
 真阿は、興四郎の隣に腰を下ろした。
「犬もお伊勢さんに行くって聞いたことがある」
 病気になってお参りに行けなかったりする人の代わりに、犬が路銀を首に巻いて、お伊勢参りの旅に参加するという。その話を聞いたとき、わくわくもしたし、寂しくもなった。せってばかりだったときよりも、外に出る機会は増えたけれど、それでも真阿は犬や興四郎よりも自由にはなれない。
「犬は、人の行くところについてくるからなあ。餌ももらえて、可愛がってもらえるなら、どこにでも行くさ」
 そんな動物はたぶん、犬だけだ。猫も人の家に上がり込んだり、飼われたりしているけれど、人についてどこまでも行ったりはしない。
 興四郎は笑って言った。
「お真阿殿も、いつか行けるさ。大阪から伊勢は数日だ。からの長旅とくらべたら、近いもんだ。婿になるべく優しい男を選ぶといい。そいつをしりに敷いて好きにすればいいさ」
 もう東京という名前に変わって、ずいぶん経つのに、興四郎はときどき「江戸」と言う。
 真阿は少し考えた。いつか自分の足で、お伊勢さんや東京まで行ける日がくるのだろうか。だったら、婿を取るのも悪くない。
 真阿は口を開いた。
「黒い犬」
 興四郎は、目を細めた。内心の見えない表情だ。
「黒い犬の夢を見る。このあいだから、毎晩」
「それは、お真阿殿の知っている犬か? 昔可愛がっていたとか?」
 それを聞かれると少し困る。真阿は昔のことをあまり覚えていないのだ。
「わからない。でも、これまではずっとそんな夢なんて見なかった。最近になって毎晩」
 そして、少なくともこの近所で会った犬ではない。
「どんな黒い犬だ?」
「どんなって言われても……」
 真阿は両手を広げた。
「このくらいの大きさ。目も鼻も真っ黒で、影が犬になったみたい」
 ああ、ひとつ大事なことを忘れている。
せていて、とても悲しそうだった」
 細めた目の奥で、感情が動いた気がした。だが、興四郎の心はなかなか読めない。柔らかい笑顔の煙幕に隠されてしまう。
 興四郎は大きく伸びをした。
「まあ、でも、嫌な夢じゃないなら、そいつは悪いもんじゃねえよ。気にすることはない」
 真阿は知っている。興四郎には、普通の人たちには見えないものが見えて、いないものが感じられる。なにも言わないし、見えていることを隠してはいるけれど、真阿にはわかる。
 だから、興四郎が悪いものではないというのなら、きっとそうなのだろう。
 真阿も怖いと思っているわけではない。ただ、あの悲しそうな目のことが気に掛かるのだ。

(つづく)

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作品紹介



幽霊絵師火狂 筆のみが知る
著者 近藤 史恵
定価: 1,705円(本体1,550円+税)
発売日:2022年06月30日

その男の絵は、怖くて、美しくて、すべてを暴く。
大きな料理屋「しの田」のひとり娘である真阿。十二のときに胸を病んでいると言われ、それからは部屋にこもり、絵草紙や赤本を読む毎日だ。あるとき「しの田」の二階に、有名な絵師の火狂が居候をすることになる。「怖がらせるのが仕事」と言う彼は、怖い絵を描くだけではなく、普通の人には見えないものが見えているようだ。絵の犬に取り憑かれた男、“帰りたい”という女の声に悩む旅人、誰にも言えない本心を絵に込めて死んだ姫君……。幽霊たちとの出会いが、生きる実感のなかった真阿を変えていく。
詳細:https://www.kadokawa.co.jp/product/322104000676/
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