連載「コロナ禍と出会い直す 磯野真穂の人類学ノート」(第19回)
前回まで
コロナ禍で行政・自治体関係者を中心に使われた「気の緩み」。「フワッとした言葉はナンセンス」という結論で踏みとどまるのではなく、なぜある種の説得力を持って使われ続けたのかに人類学的視点から迫る。
コロナ禍で頻回に使われた「気の緩み」。とはいえ、気とは一体なんなのだろう。分析を踏まえると、それは自分のうちにありながら、外にもあり、全体をつなげる目に見えない「なにものか」であること。加えてその「なにものか」は、現象や出来事の在り方にも影響を与えることがみえてくる。
では辞書はどのような定義を施しているのか。手元の岩波国語辞典(第7版)には、次のような記載がある。
(1)心の動き・状態・働きを総合して捉えたもの。精神。
(2)見えないとしても身のまわりに漂うと感ぜられるもの。
(3)口を出入りする息。呼吸。
「気」について何も知らない人がこの項目を引いた時のことを想像してほしい。
「気」とは、心のあり方のこと。息のこと。さらには身の回りに漂っていると感じられる見えない何か。
「何のこっちゃ」となること間違いない。作成側もこれに気づいていたのだろう。3段の辞書のほぼ1段を使い、事細かに用例が載せられている。
他方、日本大百科全書(小学館)をひくと、その語源までが紹介されていた。中国思想学者の山井湧氏による説明をかいつまむと次のようである。
元は中国の哲学用語
元々は、中国哲学の用語であって、それは天地の間、人の身体の中に満ちている。そればかりでなく、それは天地万物を生成し、かつ生命力、活動力の根源であって、人の心身の機能もここにさかのぼって説明することができる。
さらに陰陽五行説においては、陰陽、木火土金水というように、気を2種類、あるいは5種類に分ける。これら多様な気の根源を「元気」とし、元気による万物の生成が説かれた。
「気が抜ける」「気がする」「元気がある」といったように、日本語の日常には「気」があふれている。このため私たちは「気」についてわかった「気」になっているが、いざ説明するとなると大変に難しい。これが「気」の面白さなのだ。
実際、日本をフィールドとす…
からの記事と詳細 ( 「気」とはなにか…哲学者も考えた 壮大な代物、使いこなす私たち ... - 朝日新聞デジタル )
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