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Thursday, November 9, 2023

演奏を止めるな…大人の趣味は毎日台所に立つ「ありあわせ」の力で - 読売新聞オンライン

apaituberita.blogspot.com

忘れられない言葉がある。あるバイオリニストが、ファンから寄せられた質問に答える企画で返した言葉だ。そのファンは自分でも楽器を演奏する人のようで、投げかけられた質問は「どれだけ練習をしても、発表会では毎回必ず緊張してミスをしてしまいます。なにか対処法はありますか?」というものだった。バイオリニストからの回答はたったひと言、「緊張しなくなるまで練習してください」。

私はたしかその言葉を、高校生のとき、雑誌のインタビューコーナーで目にしたのだったと思う。いや、そんなこと言われても、というのが率直な気持ちだった。当時、自分自身もバイオリンといくつかの楽器を習っていたから、その質問をしたファンの悩みはよくわかった。肝心なときに緊張しないための方法を尋ねているのに、“緊張しなくなるまで練習しろ”というのはあまりにも禅問答めいているというか、意地悪にもほどがあるんじゃないか。けれどその言葉の持つ妙な迫力は、思った以上に長く自分のなかに残った。

子どものころにやめてしまった趣味のバイオリンをつい最近また弾くようになった、という話をすこし前にこの連載でも書いた。

夏からバイオリン教室に通いはじめて、タンゴやクラシックを専門とする先生からレッスンを受けている。防音性の低い自宅では練習ができないので、家から徒歩30分ほどの音楽スタジオにこもって、週に何日かは練習するようにしている。

ランニングだとかヨガだとか、大人になってから取り組もうとした習慣はどれもまともにつづいたためしがないから、やっぱり楽器は例外的に好きなんだろうと自分でも思う。

しばらく練習をつづけていると、自分の弾きかたの癖や欠点が手にとるように見えてくる。音の大小だけで緩急をつけた気になりがちだな、とか、テンポの速い曲では弓が弾んで音がかすれたり濁ったりしがちだな、というようなことを考え出すと、しだいになにもかもが気になってくる。

とりわけ 苛立(いらだ) つのが左手の運指のあいまいさだ。楽譜上では中指で押さえなさいと指示されている音をその場しのぎの人差し指や薬指で押さえてしまって、わずかに音がずれることがとても多い。ミスに気づくたびに手が止まって、ため息をつきながら弾きなおすことになる。自分に出せる最大限のいい音をできる限り毎小節で再現したい、と思えば思うほど、演奏が遅々として進まなくなってくる。

いい音を出すために練習しているのだから、はじめはそれでいいと思っていた。けれどレッスンに通うようになると、運指を間違えたり弓遣いを間違えて演奏を中断させるたびに、音は合ってるからそのまましばらく弾きつづけて、と先生に指示されることが増えた。

耳がいいのね、とあるとき先生が言った。だから一音一音のずれが気になってつい毎回立ち止まりたくなると思うんだけど、それはある程度くり返して弾きつづけるうちに指の位置で覚えられるものだから、まずは流れを止めないことを優先していいですよ、というのが先生のアドバイスだった。

たしかにいちいち止まりすぎているな、と私が内心恥ずかしく感じていると、先生は付け足すように、耳がいいのは才能ですよ、と言った。もちろん、もっと難しい曲になってくると耳のよさや音感だけでは立ち行かなくなってくるけれど、まずはそれを信じて弾いてみても大丈夫だと思いますよ。

その日のレッスンを受けて思い出したことがある。那須耕介という法哲学者の「ありあわせの能力」というエッセイのことだ。

エッセイの冒頭では、ジャズミュージシャン、リー・コニッツが即興演奏の心得について語った「何も準備しないで演奏する、それにはたくさんの準備が必要だ」という言葉が引用されている。決まったスコアや展開がないからこそ、いい即興演奏をするためには日頃の準備、つまり練習が欠かせないという意味だろう。ユニークなのは、那須がその「準備」を“毎日家の台所に立ち続ける能力を会得すること”に (たと) えている点だ。

私たちが台所に立って用意する日々のごはんは基本的に、冷蔵庫の余りものとか、なんとなく覚えているレシピの範囲内だけでつくられている(もちろんそうではない日もあるけれど)。無限の時間や無限の資源に恵まれているわけではない我々は、いま手元にあるもののなかでどれだけのことができるか、というギリギリのやりくりを毎日つづけている。だからこそ、“私たちは毎日を臨機応変、行き当たりばったりで乗り切っていくことをよしとする気風とその能力とを、多少なりとも自分のものにしておく必要があるだろう”と那須は言う。

楽器の演奏会やセッションでは止まることが許されない。だからこそ、那須の言うところの「ありあわせの能力」が必要になってくる。ありあわせの能力とは、現状の自分の力量を過小評価するでもなく過大評価するでもなく、まあこんなものかな、と思える範囲の行為を精いっぱいやりきる力のことだろう。

もしかすると「緊張しなくなるまで練習してください」というあのバイオリニストの言葉も、どんなコンディションでも100%の演奏をできるようになれ、という意味ではなく、必ずしも100%の演奏ができないシチュエーションにも慣れろ、というニュアンスだったのかもしれないといまさらに思う。

自分にはまだその胆力がないなと落ち込みそうにもなるけれど、幸い、(毎日台所には立てないくせに)楽器の練習だけは欠かさずにできている。これをつづけていった先でいつか完璧な演奏ができるとは思わないけれど、そのときどきの「ありあわせ」の演奏ができるだけ楽しいものであったらいいと思うし、そうあるように努めたい。(エッセイスト 生湯葉シホ)

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