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Wednesday, December 1, 2021

澤田瞳子さん「夜鳥」 「子」の絶叫心動いた「父」 - 読売新聞

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 鞍馬寺の稚児・ 遮那王しゃなおう が、夜ごと寺を抜け出し、鞍馬の奥山に通っている。そんな うわさ を寺の役僧から告げられたとき、寺男の 藤次とうじ は思わず、「そりゃまた、なんで」と つぶや いた。

 「なんででは済まんぞ。稚児の行状に目を配り、時に戒めるのは、おぬしら寺男の勤め。それをまあ、よりによってあの遮那王を寺から抜け出すままにしておるとは」

 寺内の庶務を一手に担う役僧はまだ二十歳と若いが、元は都の貴族の生まれである。いずれは東寺や仁和寺に居を移し、天皇に近侍する護持僧に出世しかねぬ高貴な身分だけに、親子ほど年が離れているとはいえ、藤次には口答えすら はばか られる相手である。手にした中啓でいらいらと床を突く役僧に、藤次は庭に平伏した。

 「だいたい拙僧は最初っから、もののふの せがれ なんぞを寺に入れたくなかったのだ。それをまあ、寺の長老がたは都の衆にいい顔をして」

 役僧の文句も、無理はない。なにせただいま話題にされている遮那王は、十年前に 謀叛人むほんにん として殺された武士・源義朝の忘れ形見の一人。まだ赤子だったために命だけは許されて母と共に暮らしていたが、この春、十一歳になると同時に鞍馬寺に預けられ、ゆくゆくは僧侶となると定められている少年である。

 一昨年の春、平家の 棟梁とうりょう ・平清盛が武士でありながら初めて、この国最高の官職・太政大臣に任ぜられたものの、都にはいまだ武士を恐ろしい やから と考える風潮がある。それだけに武士の息子を寺で預かるなぞ、鞍馬寺では前代未聞の珍事。挙句、その遮那王が夜ごと、寺を抜け出しているとは、これまた世間への聞こえが憚られる出来事であった。

 「とにかく雑舎を見張り、遮那王を寺外に出さぬようにしろ。こんなことが公になれば、平家のご一門からどんなお とが めを受けるやら」

 「承知いたしました。では早速、今夜から」

 そう応じて退けば、寺男の詰所の前に一人の男が座っている。こちらの姿に立ち上がった彼に、藤次はその場に立ちすくんだ。

 「久しぶりだな、 親父おやじ どの」

 「 松若まつわか 、おめえ――」

 唇を片頬に引いたその顔は、驚くほど若い頃の藤次に似ている。「何用だ」と問うた声は、懐かしさと苦々しさが胸の中で混じり合った結果、自分でも驚くほどそっけなかった。

 「相変わらずだな。十四、五年ぶりじゃねえか。まずは息子の無事を喜んでくれてもよかろうに」

 「なにを図々しい。寺男なぞ 御免ごめん だとぬかして飛び出して行ったのは、お前だろう」

 「ご門前の茶屋の じじい に聞いたんだが、おっ母さんは七年も前に亡くなっちまったそうだな。なにせ昔から 身体からだ が弱かったからなあ」

 悪びれた様子もなく、松若は足元の小石を蹴った。身にまとっている水干は染み一つなく、 平礼烏帽子ひれえぼし からのぞく髪にも 櫛目くしめ が通っている。朱色の 菊綴きくとじ といい平織りの 頸緒くびお といい、屋敷勤めの下人らしき 身拵みごしら えであった。

 「言っとくが、銭ならないぞ」

 声を とが らせた藤次に、松若は長い指でこめかみを いた。

 「親父どのは相変わらずだな。久々に会ったとて、どこで何をしているのか、ひと言も聞かねえときたもんだ」

 寺男見習いだった松若が鞍馬山を出奔したのは、十五年前。かねて参詣に来た貴族の一行を見ては、「おいらも都に出たいなあ」と呟いていた倅だけに、都に向かったとは分かっていた。ただそれでも藤次が息子を捜しに行かなかったのは、連れ戻したとて松若に寺男勤めは向いていないと承知していたためだ。

 「俺は今、大相国さまのお屋敷に勤めているんだ。分かるかい、親父どの。都の西八条にある、平清盛さまのお住まいさ」

 都から離れた鞍馬にも、昨今の平家一門の栄華は聞こえてくる。自慢げな息子に、そりゃ大したもんだ、と藤次は我知らず目を みは った。

 都に何の縁故もない松若が、今をときめく平家の屋敷に勤めるには、相当苦労をしたはずだ。不肖の倅がよくぞそこまでの我慢を、との思いが、藤次の胸を小さく揺らした。

 「そうだろう? とはいえ、西八条のお屋敷はたまげるほどに広くてよ。殿舎や堂宇だけでも五十余宇、池が五つもあって、俺みてえな下人は相国入道さまはもちろん、ご一族の姿すら隙見もできねえ。もう少し俺がご一門のために役立てれば、ただの下人から家司に取り立ててもらえるんだけどなあ」

 嫌な予感を覚えた藤次に、松若は、なあ、と歩み寄った。

 「噂に聞いたんだけどよ。先の戦で相国入道さまに負けた源氏の倅が今、鞍馬山にいるんだろう? そいつ、どんな餓鬼なんだよ。おとなしく坊主になる修行をしているのかい?」

 なるほど、これが目的か。藤次は苦い思いを みしめた。

 遮那王がもし平家に反抗的な態度を見せ、それを主家に通報できれば、松若は西八条第で更に取り立てられよう。

 松若が自分を慕って鞍馬寺に来たわけではないことは分かっていた。とはいえそれをこんな形で突きつけられると、なまじ親子であればこそなお、胸の底がしんと冷える。

 「――なに、至極おとなしい童だぞ。勉学にもよく励んでいると聞くし、常の行いも静かなものだ。いずれ優れた御僧になろうな」

 静かに告げた藤次に、松若は目に見えて不快な顔をした。それは本当か、少しでも 胡乱うろん な態度はないのかと重ねて問うた末、ちっと大きな舌打ちをした。

 「じゃあ、もしそいつが変な態度を見せたら、すぐに俺に教えてくれよ。礼は弾むからよ」

 言うなり きびす を返す背が、奇妙なほど遠く見える。大きな 溜息ためいき とともにそれを見送れば、すでに西空は あかね に染まり、気の早い からすねぐら へと帰り始めていた。寺男にとって、夕刻はもっとも多忙な時刻。大急ぎで寺の鐘を き、寺門を閉ざす間に、四方を山に囲まれた山内は深い夜の闇に押し包まれた。

 「おい、どうした。休まんのか」

 と言う他の寺男たちに、生返事を返して詰所を出る。わずかな星影だけを頼りに境内の暗がりを急げば、稚児たちの暮らす雑舎から忍び出て来る影がある。遮那王であった。

 慣れた様子で物陰から物陰へと走ると、遮那王は本堂裏の杉木立に駆け込んだ。鞍馬寺は山の中腹に 伽藍がらん があり、背後にそびえる山々は近隣の そま しか立ち入らぬ深い森である。

 まだか細い少年の白い水干の袖が、木立の中にふわりと ひらめ く。こんな夜更け、奥山に何の用が、と思いながら藤次はその後を追った。

 鞍馬山の奥には 天狗てんぐ むとの噂があるが、少なくとも藤次はそんな影は一度も見たことがない。森の奥で ふくろう下藪したやぶ を揺らす熊や狼を遠目にしたのがせいぜいだ。

 遮那王は山肌を一気に駆け上がるや、突然、地面にばたりと倒れ伏した。木の根に足を取られて転んだにしては、そのまま起き上がらない。 怪訝けげん な思いで藤次が木陰から首を突き出した途端、「ち、畜生。平家の奴らめッ」との甲高い叫びが遮那王の唇から れた。

 「い、いつか皆殺しにしてやるッ。父上、父上――」

 まだ小さな拳が地面を打ち、涙混じりの絶叫が闇を揺らす。藤次はその場に膝をついた。

 遮那王の父が討たれた時、彼は生まれたばかり。顔も声も覚えておらぬであろうに、それでもこの少年は人目を忍んで父を呼んでいる。

 松若の顔が脳裏に明滅し、すぐに消える。自分と松若も父子であれば、亡き源義朝と遮那王も父子。まったく父子にも様々あるものだ、と思うと、目と鼻の先の距離で 慟哭どうこく する骨細な姿がひどく愛おしく感じられてきた。

 藤次は己の喉を軽く押さえた。「おい、童」とわざと らした声を張り上げた。

 「かようなところで何を わめ いておる。ここはこれなる大天狗の棲み く疾く帰れ」

 がばと起き直った遮那王が、 おび え顔で四囲を見回す。早く、と藤次は声を張り上げた。

 「父を しの ぶのはよい。されどこんな場で泣きわめいては、平家の手先に知れるぞ。父の かたき を取りたくば、もっと賢くなれ。寺の奴らを欺き、雄々しくなれ」

 「て、天狗――」

 涙の跡を とど めた顔のまま、遮那王が後じさる。そのまま恐怖に目を り上げ、一目散に寺へと駆け出す少年を、藤次は瞬きもせずに見送った。

 あの少年がどんな大人になるかは分からない。だがもしこの先も遮那王が父の死を恨み、平家を憎み続け――それを周囲に見事隠しおおせたとすれば、藤次は彼ら父子に陰ながら力添えをしたのかもしれない。

 実の息子とはうまく父子になれぬ自分が、他の子を手助けするとは。

 「ふうむ、人の世はうまく出来ているものだ」

 藤次の呟きに 相槌あいづち を打つかのように、遠くで夜鳥がギャアッと啼く。まるで誰も姿を見た事のない天狗の声かと疑うほど、夜の闇に長く響きを残す、不思議に太い啼き声であった。

 さわだ・とうこ 1977年、京都市生まれ。同志社大大学院で仏教制度史を研究し、2010年に「孤鷹(こよう)の天」でデビュー。16年「若冲」で親鸞賞、20年「駆け入りの寺」で舟橋聖一文学賞。今年は「星落ちて、なお」で直木賞を受賞した。ほかに「火定」「落花」「輝山」など。

 ◇この掌編小説は澤田瞳子さんの書き下ろしです。「よみうり読書 芦屋サロン」は従来、掌編小説をもとに作家と読者が直接語り合うイベントを実施してきました。しかし新型コロナ禍の情勢を踏まえ、前回に続いてイベントは行わず、代わって記者が澤田さんにインタビューする形とします。内容は来年1月の夕刊紙面と読売新聞オンラインでお伝えします。

 インタビューに先立ち、みなさんからの質問を募集します。小説の感想、創作にまつわる疑問など何でも結構です。名前と年齢を明記のうえ、ファクス(06・6881・7191)または電子メール(o-dokusyo@yomiuri.com)でお送りください。郵送の場合は、〒530・8551(住所不要)読売新聞大阪本社「読書サロン」事務局。締め切りは今月17日(必着)。問い合わせは事務局(06・6366・1687)へ。

 【主催】読売新聞大阪本社

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