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Monday, March 21, 2022

<リカイってなに?>打ち明けた同性愛「ありのまま知ってほしくて」 大学の友人、職場の先輩、そして両親へ - 神戸新聞NEXT

apaituberita.blogspot.com

 多様な性への理解について考えるシリーズ「リカイってなに?」。今回は、当事者にカミングアウトを巡る気持ちやエピソードを語ってもらいました。会社員の松浦慶太さん(36)は今、同性のパートナーと兵庫県尼崎市内で一緒に暮らしています。カミングアウトについては、隠すことのしんどさから「割と『していきたい』派」と言います。相手との関係性やタイミングによっては言わないこともあるそうです。(大田将之)

 「男性が好き」と気付いたのは、中学生の頃だった。思春期を迎え、同級生たちが「異性」を意識しはじめた。話題はよく恋バナになって、そんなときに考えるのはいつも「男の人」だった。とっさに「誰にも言ったらあかんことや」と思った。

 友人から「誰が好きなん?」と聞かれると、恋愛感情ではないと分かっていながら、仲の良かった女子の名前を挙げてその場を取り繕った。必死で気持ちにふたをした。

 自分は病気だから治さないといけない。世界中で同性を好きな人間は自分一人だけ。異常者だ…。そう思っていた。自宅にあった古い辞書で「同性愛」の意味を調べると「性的倒錯」と書いてあった。

 夜寝る前に目をつむると、頭の中に男性がいた。そして、自分を責めた。「またいけないことをしてしまった。自分はなんてダメなやつなんや。存在してはいけない人間なんや」

     ◆

 大学生になって性的マイノリティーが集う学内のサークルに入り、初めて自分以外の「当事者」に出会った。花見やバーベキューは楽しくて、自分を偽らなくても済む居場所になった。

 サークルの存在自体は大学でも知られているが「国際交流サークル」を名乗って活動をカムフラージュしていた。カミングアウトしていない人もいれば、オープンな人もいる。それでも「この秘密は一生隠して生きていく」との決意は変わらないと思っていた。

 「お互い当事者なら別にいいんですけど、当事者でない人にカミングアウトするなんてあり得なかった。絶対言わないと決めていたんですけど」

 すぐに転機が訪れた。あるゲイの友人との出会いだった。その友人は、松浦さんも一時期所属していたジャズグループで性的指向をオープンにしていた。

 「普通にみんなに受け入れられていたんです。すごい衝撃でした。彼と出会っていなかったら僕の人生は違っていたと思います」

 ジャズグループのメンバーにカミングアウトすることを決めた。当事者以外の相手に打ち明けるのは初めて。自分から言う勇気はなくて「飲み会でみんなに言いふらしといてほしいねん。全員に」と、その友人にお願いした。

     ◆

 内心では腫れ物扱いされるのではないだろうかと怖かったが、友人たちの反応は温かかった。

 「今思えばみんな気を使ってくれていたと思う。『どんな人が好きなん?』とか、自然に話題を振ってくれたのがありがたかった」

 初めはちょっとしたしぐさも、ぎこちなくなってしまった。「オネエっぽいと思われないか」と心配になって「野郎っぽく」話してみたり、コーヒーカップを持つときは小指が立たないように気を付けたりした。

 「それまでありのままの自分で人と接したことがなかったから、単純にどうしていいか分からなくなってしまっていたんですかね」

 松浦さん自身も1、2カ月すると慣れてきて、初めてできたパートナーとの恋愛事情も気兼ねなく話すことができるようになった。

 大学ではフルオープンとはいかないまでも、自分らしく過ごすことができた。

 「自分のことを知らない、一からの関係の方がむしろ言いやすかった」

 ひた隠しにしていた頃に仲良くなった友人には言いづらかったが、3年になって出会ったゼミの友人にはすんなりと言えた。

     ◆

 しかし、就職してからまた閉ざすようになった。

 「もしゲイだと打ち明けて拒否されても、一緒に働いていかないといけない。会社の同僚や上司は年代もばらばらですし」

 気ままに友人と付き合えた大学時代とは一転して窮屈になり、気が重かった。

 上司は、部下がミスをしてもかばってくれるような、仕事上は尊敬できる人だったが、ゲイへの偏見が強かった。会社の上層部に同性愛を公表している外国人が就任すると、嫌悪感を隠さずにこう言った。

 「あいつと会議とか絶対無理。同じ部屋になるなよ。ケツ掘られるぞ」

     ◆

 飲み会になると、いつも質問攻めに遭った。

 「恋人はいるの?」「結婚はしないの?」-。

 そこでは、当時付き合っていた4歳年上のパートナーを「彼女」に置き換えた。「相手の写真を見せて」と毎回のように言われるのが嫌で、わざと携帯電話の充電を減らして電源が落ちるようにしていた。

 「女性には結婚適齢期ってものがあるんだよ。まっちゃんが言ってくれるのを待ってるよ」と真面目な先輩からは諭された。

 「仕方がない」と割り切ってはいても、小さな嘘が積み重なるとつじつまが合わなくなってきて、何度も冷や汗をかいた。「週末は何をしてたの?」といった何気ない会話さえおっくうになり、重荷だった。パートナーと同居を始めても会社には引っ越したと言えず、家賃を二重で払い続けた。

 信頼できそうな女性の先輩には打ち明けた。それから職場の飲み会で一緒になり、いつものように「彼女の写真を見たい」とみんなに迫られると、後で「あのときごめんね」「しんどかったよね」と声を掛けてくれたことを、よく覚えている。

 「この会社にはずっとはいられない」と思いながら5年ほど働いた。

     ◆

 今、両親には既にカミングアウトしている。父と母は離婚していて別々に暮らしているが、2人の受け止めは対照的だった。

 父に打ち明けたのは、30歳の頃。当時、東京で付き合っていたパートナーが律義な人で「きちんとご両親にあいさつをしたい」と申し出て、父が住まいの鳥取県から東京に来た際に会ってもらった。事前に父には「紹介したい人がいるんやけど。ただ、想定してる感じとは違ってびっくりするかも」と伝えた。

 夜、都内の居酒屋で待ち合わせた。個室に案内されると、父が座って待っていた。「この人が、今一緒に暮らしているパートナー」。そう紹介し「実はゲイで」と説明すると、父はあっけらかんと言った。

 「お、東京は進んどるな~」「自由きままなヤツやけど、息子を頼みますわ」

 どこかつかみどころのない父だけれど、いつもと変わらない様子で笑っていた。

 現在のパートナーとも親しく、ときどき一緒に鳥取へ遊びに行く。「アメリカに旅行したら性的マイノリティーのパレードやってたわ」「LGBTのニュース見たぞ」とさらりと話し掛けてくれる。

 「男同士だからか、むしろ気兼ねなく付き合ってくれている感じですかね」

 ただ、母はそういうわけにはいかなかった。

     ◆

 自身の性的指向を母親に伝えたのは、大学を卒業する前くらいだった。父に話すよりもずっと早くて、留学先の米カリフォルニアから帰国してすぐ。母は三重県に住んでいた。

 「母には、ずっと申し訳ない気持ちがありました」。ゲイであることに悩んでいた中高生の頃、自分を否定して自暴自棄になり、理不尽に反抗してしまった。

 「『うっさいわ!』とか大声を出したりして。もともと自分は温厚なタイプで怒ることはなかったんですけど、母はショックだったと思います」

 ちゃんと説明して、謝りたかった。そして、ありのままの自分を知ってもらいたかった。そう決意をして、母に電話を掛けた。

 「今まで言ってなかってんけど、実は女の人じゃなくて男の人が好きやねん」(松浦さん)

 「それって友達として好きということ?」(母)

 「そうじゃなくて、お母さんがお父さんと一緒になったのと同じように、男の人と生活したりとかしたい」(松浦さん)

 「そうなんや。今度家に帰ってきたら、いろいろ話そう」(母)

 そんな数分間のやり取りで電話は終わった。いつも明るく元気な母。さらっとした口調に、何か言いたいことがあるんだろうなと悟った。

     ◆

 結局、次に母の所へ帰ったときも、その話題に触れることはほとんどなかった。東京である性的マイノリティーのパレードに誘ってみたが「そんなんええわ」と断られた。「触れられたくないような、聞きたくないような感じ」のまま、月日は過ぎた。

 父に打ち明けたのと同じ30歳の秋ごろだった。当時のパートナーを三重県に連れて行き、母に紹介した。

 「あいさつのときは普通だったんですけど、その後からが…」

 その年のクリスマス。パートナーが、プレゼントを贈った。美容グッズだった。「先日はありがとうございました」という手紙も添えて郵送した。受け取った母から、後に電話が掛かってきた。

 「気持ち悪いもんが送られてきてんけど。なんなん、あれは!」

 「あんたは外国の女の人と結婚して、私はね、その人に英語を教えてもらうのが夢やったのに。赤ちゃん産んでな、孫の顔見てな…」

 パニック状態で、露骨に嫌悪をぶつけられた。パートナーのことを「気持ち悪い」と言われ、黙ってはいられなかった。

 思わず「そんな失礼なことはない」「お母さんだって離婚しているし、子どもが誰と付き合おうが文句を言う権利はない」と言い返した。

 「ゲイってことは大学生のときに伝えてるやん」とも伝えたが「そんなん一時的なことやと思ってた」と届かなかった。

     ◆

 その後、三重に帰ったのは1回だけ。プレゼントを贈ったパートナーとの破局を伝えると、母の反応は「そっか」だけだった。3年ほど前の誕生日にお祝いのメッセージが送られてきても、返信する気分にはなれなかった。それから、音信不通が続いている。

 「あんなにも差別的な気持ちをずっと持っていたのかって。田舎なので、近所の目とかも気になるんだと思う。理解してほしいという気持ちも、そこまでないですね。今は、このままでも仕方ないのかな。悲しいことですけど…」

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