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Sunday, October 9, 2022

さらば日産の名コンパクトカー! 「日産マーチ」消滅の理由と復活の可能性 - webCG

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日産の販売を支えた小さな大黒柱

バブル崩壊後の1991年に初のモデルチェンジを受けて2代目に。ジウジアーロデザインの直線的でシャープなフォルムだった初代とは対照的な丸っこい姿になった。パワートレインでは、CVTの採用が新しい。このモデルも評価が高く、1992年に日本カー・オブ・ザ・イヤー、その翌年にはヨーロッパ・カー・オブ・ザ・イヤーに選ばれるというダブル受賞の栄誉に浴した。マーチはエントリーモデルながら、ブランドイメージを引っ張る役割を担っていたのだ。

当時は「シーマ」や「セドリック/グロリア」などの高級セダンの売り上げが落ちていた時期で、経営面でも日産を支えたのがマーチだった。とはいえ利益率の低い小型車に頼るのは限界があり、有利子負債が積み重なって苦境に陥る。日産は1999年にルノーの傘下に入り、再建を図ることになった。フランスからやってきたカルロス・ゴーンの指揮でリストラが進められるなかで、2002年に3代目マーチが登場する。ルノーとの共通プラットフォームを使ったアライアンスモデルだった。

先代より丸さを踏襲しつつも、エクステリアデザインはカエルっぽいイメージに。業界では微妙な受け止め方をされていた記憶があるが、特に女性から絶大な支持を獲得した。オジサンにはわからない新時代のかわいさが盛り込まれていたのだ。2002年の販売台数は15万8000台と、過去最高の売り上げを記録する。失敗すれば屋台骨が傾きかねない状況だったが、マーチは日産復活の基盤となったのだ。

勢いに乗って、イギリスで生産されていたクーペカブリオレの「マイクラC+C」が2007年に輸入車のかたちで日本でも販売された。1500台限定だったが、マーチのイメージアップに貢献する。『happiness MICRA C+C STYLE BOOK』という本まで出版され、書店に並べられたのだ。カタログを再構成しただけの中身だから売れるようなものではなく、ほぼすべて“買い取り”でディーラーに置かれるから成立する持ち込み企画だった。編集を担当したのは、なにを隠そう当時出版社に勤務していた私である。

1992年に登場した2代目「マーチ」。デザインのよさと優れたパッケージが特徴で、日欧双方で高い評価を獲得。モデル末期まで人気を保ち続けた。
1992年に登場した2代目「マーチ」。デザインのよさと優れたパッケージが特徴で、日欧双方で高い評価を獲得。モデル末期まで人気を保ち続けた。拡大
3代目「マーチ」は、日産とルノーが共同開発した「Bプラットフォーム」を骨格に採用。過去のモデルのように豊富なバリエーションは用意されなかったが、オーテックの手になるスポーツモデル「12SR」(写真)や「15SR-A」が人気を博した。
3代目「マーチ」は、日産とルノーが共同開発した「Bプラットフォーム」を骨格に採用。過去のモデルのように豊富なバリエーションは用意されなかったが、オーテックの手になるスポーツモデル「12SR」(写真)や「15SR-A」が人気を博した。拡大
2007年に登場した、電動ハードトップ付きのオープンモデル「マイクラC+C」。生産は英サンダーランドで、1500台が限定販売された。
2007年に登場した、電動ハードトップ付きのオープンモデル「マイクラC+C」。生産は英サンダーランドで、1500台が限定販売された。拡大
『happiness MICRA C+C STYLE BOOK』(写真:鈴木真人)
『happiness MICRA C+C STYLE BOOK』(写真:鈴木真人)拡大

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